天気の子 感想の続き2

   世界を救いたい子どもたちvsそれを阻止する大人たちという図式に対しての批判をしておくことを忘れておりました。

   穂高たちは、最終的に警察の制止を振り切り、陽菜を救いだすことに成功し、見事に大団円をむかえます。しかし、これが原因で東京の大部分は水に沈んでしまいます。この事態に対して、穂高には何の葛藤もなく、雨の降る坂道で空に向かって祈る陽菜との再会を果たし、物語は幕を閉じてしまうのです。このあまりの「ノーテンキ」さには、さすがに呆れてしまった。

 しかし、ある意味この「ノーテンキ」さが3.11以降の我々だとも言えなくもない。あれだけ地震津波原子力事故による被害を被ったが数年もたてば、被災地を除いてどこ吹く風といった調子だ。勿論、日本国中、悲嘆にくれる必要もないのだが、何かこの「忘れっぽさ」が気になってしかたがない。結局のところ、あの程度の地震ではびくともしないと日本人の間で共通の了解ができたにすぎず、日本社会に大きな変化をもたらしたわけではなかった。

   にもかかわらず、3.11以後はとかくにつけて、日本は変わるとインテリを中心にして、騒ぎ立てていた。そんな彼らも今は静かになっている。いったいあの大騒ぎは何だったのだろう。

 

   私自身は当時、中学生のガキにすぎず、東日本が大変になっていることは理解していたが、四国に住む私にとっては何か遠い異国の出来事のように受け取っていた。それは私に限らず、西日本に住む人々は概ねそんな風だったような気がする。

   勿論、被災地へ救援物資を送るために学校で飲み物を集め、それに協力した覚えはあるが、何かユニセフへ寄付したようなあまり実感を伴わない空虚なものだった。テレビを通して流れてくる津波の映像も余計に物理的距離を感じさせるものでしかなく、誤解を恐れずに言ってしまえば、「フィクション」の世界のようにしか感じられなかった。「お前はそれでも日本人か!」旧日本軍の如きお叱りの声がどこからか聞こえてきそうだが、私にとって、3.11は空虚な「フィクション」だった。