「レディプレイヤー1」と〈リアルへの回帰〉

「レディプレイヤー1」はストーリー自体、非常に分かりやすく、「ジュマンジ2」や「ジュマンジ3」のようなゲーム的要素の強い映画になっている。作中では80年代のキャラクターや音楽が流れ、この時代を生きた人にとっては、懐かしい気持ちを催させる、「ALWAYS三丁目の夕日」的な懐古趣味も垣間見える。

  大まかにストーリーを説明すると、リアルではゴミな青年がVRの世界で少女に恋をし、最終的に賞金の獲得によって、人生を逆転させる映画である。大人をギャフンと言わせる意味で痛快な作品になっている。

   ただ、本作はスピルバーグの説教臭さが前面にですぎていて、少し鼻につく。それは、「いくらVRの世界になろうとも結局リアルに回帰するしかない!」というメッセージである。これは「ジュマンジ2」や「ジュマンジ3」にしてもそうだが、〈リアルへの回帰〉が絶対視され過ぎていている。 

    もちろん、「ジュマンジ3」はゲーム内で生きることを選んだキャラも出てくるので、そういう意味では、「レディプレイヤー1」より考えられているところがある。それに比べて本作はオタク狙いに見えて実はリア充映画になっているところがあまり感心しない。他にも、主人公の伯母が死んでも、さらっと進んでしまい、何らの葛藤もなく、どんどん状況が進んでしまうところもどうかなと思ってしまう。

   もちろん、主人公にとって嫌な伯母であったことは確かだか、何らの葛藤もないのは気になる。未来はそれだけ家族という関係がドライなのかもしれない。或いは家族というものがほとんど問題にならない社会なのかもしれない。

   さて、話を戻すと、こういうゲーム的映画では、やたらと〈リアルへの回帰〉ばかりが問題になる。それはゲームをしている人間に対するある種の偏見からきているのではないだろうか。つまり、ゲームをしている=現実に向き合っていない、という偏見ないし図式である。

   しかし、実際にはそんな図式は存在しない。ゲームをしていても、仕事をきちんとこなし、恋愛する人は多いし、家庭を持っている人もいるだろう。

   かつては一日中ゲームをしている人といえば、家に閉じこもり社会から隔絶しているという〈リアル〉の外にいる人=〈フィクション〉の世界の住人として認識されていた。しかし、現在はゲームの多様化に伴い、ステレオタイプなゲーマーというものは存在しなくなっている。

   逆に、ゲーマーが職業になるという、今まで〈フィクション〉の世界の住人と見なされていた人種が〈リアル〉の世界で活躍するという転倒も起きている。そのような現象に敏感であれば、〈リアルへの回帰〉にどこまでの意味があるのか考えた方がよい。

   もはや、〈リアルへの回帰〉を強調して、映画を作る時代ではないのだ。にもかかわらず、スピルバーグはそのあたりを読み違えている。

    前回、「ジュマンジ3」を罵倒したが、〈リアルへの回帰〉という問題系においては、「レディプレイヤー1」よりはるかに面白い解答を提出しているといえる。その点では「ジュマンジ3」を評価できる。だからといって、駄作には変わりない。

    しかし、「レディプレイヤー1」はそれを越える駄作なので、「ジュマンジ3」がましに見えたことによって、見るべきところが見つかるという逆説的なことがおきた。そのような「誤配」が起きたことに関しては喜ばしく思っている。

ではでは。