崩壊への欲望

    最近、fxを始めてみた。fxは通貨ペアを利用し、買い注文をしたり、売り注文をしたりして、注文を入れた額の差益を得るマネーゲームだ。通貨ペアの中でも、一番初心者向きなのがドル/円だと聞いて、そこから始めてみた。最初はあれよあれよと儲けて、こんなに簡単に儲かるなら、働くことが馬鹿らしいなと感じた。しかし、調子に乗ってたくさんlotをかけて、取引した結果ロスカット(強制退場)に追い込まれ、儲け分は全て失った。その後、反省もなく5万円ほど入金し、ドル/円が110円付近に到達することを待ち望んでいる。

   しかし、なぜだか虚しい気分にさいなまれている。それは「数字の奴隷」になった気がするからだ。fxを始めて以降、日夜チャートを追いかけて、数字とにらめっこし、ロングで落ちると動揺し、ショートで上がると歯ぎしりし、一喜一憂しながら生活が進んでいく。そんな日々に何か異様さを感じ始めた。その正体は可視化された「数字」への絶対的信頼によるものではないか。これは僕に限らず現代人が陥っている共通の問題に帰着するような気がする。

    昨今、SNSの発達と共にフォロワー数やリツイート数が多いことが大きな価値となっている。また、動画配信サービスのYouTubeでも、再生数を叩き出すために故意に炎上させて、広告収入を得ようとするYouTuberも多い。全て「数字」の多寡が中心にあり、それだけが重要視されている。もしかりに、フォロワー数やリツイート数、再生数が表示されない仕様になっていたら、どうであっただろうか。

おそらく、社会的影響力は大変小さいものだったはずである。そして、今より平和だったのかもしれない。しかし、もはやSNSのなかった時代に戻ることが不可能なほど、私たちの生活にSNSは浸透してしまった。今さらそれを捨てることは一個人の選択としてあり得ても、社会全体の選択としてはあり得ない。つまり、それほど大きな影響力のただ中に私たちはからめとられているとも言えるわけである。

    ここで考えるべきはそもそも「数字」はリアルなのかという問題である。確かに日夜画面に表示される為替の数字は「リアル」なはずだ。そうでなければ、国内の輸出業者や輸入業者はまともに取引できない。しかし、こんな疑問も湧いてくる。もし、為替の数字を信じない人が多数になったとしたら、為替の世界は崩壊するのではないかと。つまり、「リアル」だと自明視されている事柄も人々の「フィクション」=「共同幻想」によって成立している。言い換えるなら、嘘をみんなで信じることによって支えられているにすぎず、実際は相当もろいものではないのか。しかし、それほどもろくとも、この世界が壊れないのはやはり「共同幻想」の土台を崩すことによる弊害の方が大きいと、人々が無意識のうちに感じているからだろう。

    ただ、僕はどこかでこの「共同幻想」を切り崩す、アナーキーな者の出現を待望している。それは秩序自体の崩壊に立ち会ってみたいから。壊れていくものは全て残酷で美しい。その現場に相対できるなら、この命が滅びても良い気がする。自明なものが自明でなくなる世界で一本の藁が焼けるように、しおれて黒く灰になり、風に乗せられて、宇宙の塵となる。そんな無常の世界に人間の存在価値はない。いや、むしろそこまで極端に突き抜けてこそ、人間の真価は明らかになるのかもしれない。この大いなる逆説を前に僕は沈黙する。かつてヴィトゲンシュタインがそうしたように。