古典は不要か?

昨今、古文・漢文の有用性について疑われている。その批判は主として、実用性の有無が中心になっている。つまり、役に立つのか、立たないのかという二項対立の問題として考えられている。

しかし、そもそも古文・漢文に実用性という評価軸を持ち込むのはなぜなのか。ここが問題である。裏を返せば、ある時期までは、実用性があったとも言えるわけである。だからこそ、誰も問題にしなかった。

では、いつ頃まで実用性があったのか。あっさり言ってしまえば、日本が太平洋戦争で敗戦するまでである。それまでは文語文を様々な形で使用してきた。新聞であれ手紙であれ、文語文は日用に溶け込んでいたのである。それが戦後ぱったりといえば大袈裟だが、しだいに消えて、今では文語文を読む機会は減っている。仮にあるとしても、国語の教科書か古い文献にあたるときぐらいである。つまり、古典の実用性は現代において、ほとんどなくなってしまったわけである。

 

だからこそ、実用性がないという評価軸に巻き込まれてしまう。