ジュマンジ3の駄作ぶりはどうしたものか

子どもの頃に「ジュマンジ」を見たとき、こんな面白い映画があるのだと思うぐらい楽しんだ。勿論、一番好きな映画は「バック・トゥー・ザ・フューチャー」でそれに続いて「スターウォーズ」とくるので、その次ぐらいの位置付けではあるけれど、好きな映画のひとつだ。

しかし、この傑作を2、3で滅茶苦茶にしてくれたことに相当怒りがある。まだ、2は百歩譲って許せるが、3の駄作ぶりには目を覆うばかりだ。というのも、2では1の内容を踏襲して、恋愛要素と過去と未来の交錯があり、物語にある程度の厚みがあった。勿論、キャラクターを選んでゲームの世界で戦うという設定にはヘドが出たがそれは甘受しよう。

このたいして評価できない2と比較しても、3の全てを吹き飛ばすほどの駄作ぶりには逆立ちしてもかなわない。3では主人公の祖父とその元同僚が出てくる。主として、物語はこの二人の和解と主人公の現実世界への回帰を軸に展開される。そこに前回と同じくゲームの世界へ入っていくという要素を足してまとめたのが3だ。

まず、老人同士の和解などわざわざ「ジュマンジ」でやる必要があるとは思えない。後者の主人公の現実世界への回帰もわざわざ「ジュマンジ」である必要性が乏しい。2において、主人公はゲーム内でマッチョな男になり、その自分に酔っており、3において冷えきっていた彼女との関係を再びマッチョになることで、改善できると思い込む相当痛い男なのだ。

乏しい言ったのはゲームに戻る必然性が単に女のためであり、それ以上でもそれ以下でもないためである。そもそも、1や2においては、プレイヤーは「ジュマンジ」をやらざるを得えない状況下に置かれており、彼らに選択権はなかった。これは、つまり、「運命」の問題だった。それが3では「自由意思」の問題になっており、老人同士の和解やマッチョになって女の気を引くというアホアホな話のために「ジュマンジ」というゲームが利用されている。これに我慢ならなかった。

はっきり言って、僕は「ジュマンジ2」と「ジュマンジ3」は「ジュマンジ1」の続篇とは見ていない。

むしろ、僕の分類では「ジュマンジ1」の正統な系譜は「ザ・スーラ」であり、「ジュマンジ2」や「ジュマンジ3」ではない。「ザ・スーラ」と「ジュマンジ1」の比較はやりたいと思っているが、それはまたいずれやる。

ジュマンジ」の面白さは奇妙なボードゲームをこの現実世界の中でプレーすることにある。つまり、「リアル」と「フィクション」の境界を曖昧にすることで、生まれる面白さが「ジュマンジ」の醍醐味といえるのだ。

繰り返すが、2、3がなぜ駄作かといえば、この「リアル」と「フィクション」という境界をきっちり峻別し、はいはいこっちは「フィクション」でこっちは「リアル」ですっていう構造を分かりやすくしすぎている。すぱっと二分法で割りきっている辺りにどうしてもバカっぽさを感じざるをえない。

僕はバカっぽいのに実は賢く作られている映画が好きなのだが、2、3はバカっぽくて本当にバカな映画なので全く評価できない。