古典は不要か?

昨今、古文・漢文の有用性について疑われている。その批判は主として、実用性の有無が中心になっている。つまり、役に立つのか、立たないのかという二項対立の問題として考えられている。

しかし、そもそも古文・漢文に実用性という評価軸を持ち込むのはなぜなのか。ここが問題である。裏を返せば、ある時期までは、実用性があったとも言えるわけである。だからこそ、誰も問題にしなかった。

では、いつ頃まで実用性があったのか。あっさり言ってしまえば、日本が太平洋戦争で敗戦するまでである。それまでは文語文を様々な形で使用してきた。新聞であれ手紙であれ、文語文は日用に溶け込んでいたのである。それが戦後ぱったりといえば大袈裟だが、しだいに消えて、今では文語文を読む機会は減っている。仮にあるとしても、国語の教科書か古い文献にあたるときぐらいである。つまり、古典の実用性は現代において、ほとんどなくなってしまったわけである。

 

だからこそ、実用性がないという評価軸に巻き込まれてしまう。

崩壊への欲望

    最近、fxを始めてみた。fxは通貨ペアを利用し、買い注文をしたり、売り注文をしたりして、注文を入れた額の差益を得るマネーゲームだ。通貨ペアの中でも、一番初心者向きなのがドル/円だと聞いて、そこから始めてみた。最初はあれよあれよと儲けて、こんなに簡単に儲かるなら、働くことが馬鹿らしいなと感じた。しかし、調子に乗ってたくさんlotをかけて、取引した結果ロスカット(強制退場)に追い込まれ、儲け分は全て失った。その後、反省もなく5万円ほど入金し、ドル/円が110円付近に到達することを待ち望んでいる。

   しかし、なぜだか虚しい気分にさいなまれている。それは「数字の奴隷」になった気がするからだ。fxを始めて以降、日夜チャートを追いかけて、数字とにらめっこし、ロングで落ちると動揺し、ショートで上がると歯ぎしりし、一喜一憂しながら生活が進んでいく。そんな日々に何か異様さを感じ始めた。その正体は可視化された「数字」への絶対的信頼によるものではないか。これは僕に限らず現代人が陥っている共通の問題に帰着するような気がする。

    昨今、SNSの発達と共にフォロワー数やリツイート数が多いことが大きな価値となっている。また、動画配信サービスのYouTubeでも、再生数を叩き出すために故意に炎上させて、広告収入を得ようとするYouTuberも多い。全て「数字」の多寡が中心にあり、それだけが重要視されている。もしかりに、フォロワー数やリツイート数、再生数が表示されない仕様になっていたら、どうであっただろうか。

おそらく、社会的影響力は大変小さいものだったはずである。そして、今より平和だったのかもしれない。しかし、もはやSNSのなかった時代に戻ることが不可能なほど、私たちの生活にSNSは浸透してしまった。今さらそれを捨てることは一個人の選択としてあり得ても、社会全体の選択としてはあり得ない。つまり、それほど大きな影響力のただ中に私たちはからめとられているとも言えるわけである。

    ここで考えるべきはそもそも「数字」はリアルなのかという問題である。確かに日夜画面に表示される為替の数字は「リアル」なはずだ。そうでなければ、国内の輸出業者や輸入業者はまともに取引できない。しかし、こんな疑問も湧いてくる。もし、為替の数字を信じない人が多数になったとしたら、為替の世界は崩壊するのではないかと。つまり、「リアル」だと自明視されている事柄も人々の「フィクション」=「共同幻想」によって成立している。言い換えるなら、嘘をみんなで信じることによって支えられているにすぎず、実際は相当もろいものではないのか。しかし、それほどもろくとも、この世界が壊れないのはやはり「共同幻想」の土台を崩すことによる弊害の方が大きいと、人々が無意識のうちに感じているからだろう。

    ただ、僕はどこかでこの「共同幻想」を切り崩す、アナーキーな者の出現を待望している。それは秩序自体の崩壊に立ち会ってみたいから。壊れていくものは全て残酷で美しい。その現場に相対できるなら、この命が滅びても良い気がする。自明なものが自明でなくなる世界で一本の藁が焼けるように、しおれて黒く灰になり、風に乗せられて、宇宙の塵となる。そんな無常の世界に人間の存在価値はない。いや、むしろそこまで極端に突き抜けてこそ、人間の真価は明らかになるのかもしれない。この大いなる逆説を前に僕は沈黙する。かつてヴィトゲンシュタインがそうしたように。

「半沢直樹」が好きな日本人

   「半沢直樹」のストーリーを端的に言えば、勧善懲悪の現代版時代劇といえよう。

 

ここで、少し寄り道がてら「勧善懲悪」について、明治以降の近代文学との流れから論じてみたい。明治以前の文学すなわち江戸までの文学は、基本的に勧善懲悪の物語が庶民の間で消費されており、人間の奥深い部分や人間同士の葛藤といった善悪の領域を超えた事柄に関して、描かれてこなかった。つまり、文学が人生の指針になったり道しるべになることなどなかったわけである。

 

逆に言えば、江戸までの文学はある種カラッとした屈託のない健康的娯楽として消費されていたのである。それが明治に突入するやいなや、ヨーロッパの近代文学が押し寄せ、その小説群の多くが人生の本質や深さを追求していることを当時の文学者は認識し始めた。

 

ここから漱石や鴎外その前の世代で言えば逍遙や四迷による葛藤多き日本の近代文学が幕を開けるのである。とりわけ、漱石の「こころ」や鴎外「高瀬舟」は人生の難しさや葛藤、罪にさいなまれる苦しみがしっかりと描かれている。

 

しかし、遺憾ながら、彼らの血のにじむような努力は大部分が無駄であったのではなかろうか、と今にしてみれば思われる。というのも、日本人は元来「勧善懲悪」が好きなのである。それが証拠に戦後日本では数多の時代劇が放送されており、「水戸黄門」や「鬼平犯科帳」といった「勧善懲悪」ものが持て囃されたのだ。映画でいえば、西部劇が人気だったことも考え合わせると、この問題は非常に根深いものがある。

 

そして、現在の「半沢直樹」ブームに至り、物語というプロブレマティーク(問題系)でいえば江戸まで後退してしまっている。つまり、私たちが欲望しているのは相も変わらず「強大で極悪な敵vsそれに立ち向かう勇気あるヒーロー」という昔ながらの図式なのである。この爽快感とカタルシスだけが私たちにとって重要なのであって、人間の奥深い部分や人間同士の葛藤には関心がない。結局、見かけ上ヨーロッパのように近代化してみせたが、その内実は極めて「日本的」であった、という多くの文芸批評家が指摘した事実に立ち戻るほかないのかもしれない。

 

なぜ生きるのか? ウォーキングデッドより

    「人はなぜ生きるのか?」この命題は古今東西の哲学者や思想家が考えてきたテーマです。今回はウォーキングデッドに定位して、この命題に迫ってみたい。

    まず、ウォーキングデッドのストーリーをさらっと説明します。主人公のリックは保安官をしていたのですが、犯人の追い詰めている最中、銃に撃たれて昏睡状態に陥ります。その後、奇跡的に目を覚ましたリックは、世界が変貌してしまっていることに気づきます。世界はウイルスに感染して、人間は「ウォーカー」になってしまったのです。「ウォーカー」は私たちの世界ではゾンビと呼ばれていますが、「TWD」の世界ではゾンビという言葉や概念が存在しないため、「ウォーカー」ないし「バイター」と呼ばれています。人間は「ウォーカー」に噛まれると、「ウォーカー」になってしまいます。なので、感染していない人間は「ウォーカー」と戦いながら、安息の地を目指して、広い大地を漂流します。しかし、漂流の最中、多くの人が「ウォーカー」に襲われて、帰らぬ人になってしまいます。そんなとき、彼らは考えます、「こんな絶望的な世界で生きる意味はあるのか」と。

    生きることを諦めた者は自殺し、諦めない者は諦めない者同士で命をめぐる抗争を繰り広げるのです。物語が進むごとに敵は「ウォーカー」から「人間」へと変貌していきます。

    そうしたなかで、生きることは原初的かつ即物的なものに引き戻されていくのです。「家族を守りたい」「子どもを産んで子孫を残したい」そんな単純かつ当たり前の営みが生きる意味へと繋がっていくのです。

    現代を生きる私たちは、えてして抽象的に生きる意味を追いかけて掴めずにいます。しかし、生きることはもっと即物的で動物的なことなのではないか。ウォーキングデッドを観ているといつもそう感じてしまいます。

    私たちは高い理想や精神性を重いものだと見すぎていて、即物的で動物的なものを軽く見すぎている。そうして、人間の三大欲求である食欲、性欲、睡眠欲、そして、衣服、食事、住居という生活を支える基盤の重要性に目がいかなくなる。

    ウォーキングデッドは、そんな単純すぎて普段の生活において認識できない領域にうまく光を当てており、「生きるとはどういうことなのか」という命題を最も原初的なレベルで語る素晴らしい作品と言えよう。

 

 

 

 

「レディプレイヤー1」と〈リアルへの回帰〉

「レディプレイヤー1」はストーリー自体、非常に分かりやすく、「ジュマンジ2」や「ジュマンジ3」のようなゲーム的要素の強い映画になっている。作中では80年代のキャラクターや音楽が流れ、この時代を生きた人にとっては、懐かしい気持ちを催させる、「ALWAYS三丁目の夕日」的な懐古趣味も垣間見える。

  大まかにストーリーを説明すると、リアルではゴミな青年がVRの世界で少女に恋をし、最終的に賞金の獲得によって、人生を逆転させる映画である。大人をギャフンと言わせる意味で痛快な作品になっている。

   ただ、本作はスピルバーグの説教臭さが前面にですぎていて、少し鼻につく。それは、「いくらVRの世界になろうとも結局リアルに回帰するしかない!」というメッセージである。これは「ジュマンジ2」や「ジュマンジ3」にしてもそうだが、〈リアルへの回帰〉が絶対視され過ぎていている。 

    もちろん、「ジュマンジ3」はゲーム内で生きることを選んだキャラも出てくるので、そういう意味では、「レディプレイヤー1」より考えられているところがある。それに比べて本作はオタク狙いに見えて実はリア充映画になっているところがあまり感心しない。他にも、主人公の伯母が死んでも、さらっと進んでしまい、何らの葛藤もなく、どんどん状況が進んでしまうところもどうかなと思ってしまう。

   もちろん、主人公にとって嫌な伯母であったことは確かだか、何らの葛藤もないのは気になる。未来はそれだけ家族という関係がドライなのかもしれない。或いは家族というものがほとんど問題にならない社会なのかもしれない。

   さて、話を戻すと、こういうゲーム的映画では、やたらと〈リアルへの回帰〉ばかりが問題になる。それはゲームをしている人間に対するある種の偏見からきているのではないだろうか。つまり、ゲームをしている=現実に向き合っていない、という偏見ないし図式である。

   しかし、実際にはそんな図式は存在しない。ゲームをしていても、仕事をきちんとこなし、恋愛する人は多いし、家庭を持っている人もいるだろう。

   かつては一日中ゲームをしている人といえば、家に閉じこもり社会から隔絶しているという〈リアル〉の外にいる人=〈フィクション〉の世界の住人として認識されていた。しかし、現在はゲームの多様化に伴い、ステレオタイプなゲーマーというものは存在しなくなっている。

   逆に、ゲーマーが職業になるという、今まで〈フィクション〉の世界の住人と見なされていた人種が〈リアル〉の世界で活躍するという転倒も起きている。そのような現象に敏感であれば、〈リアルへの回帰〉にどこまでの意味があるのか考えた方がよい。

   もはや、〈リアルへの回帰〉を強調して、映画を作る時代ではないのだ。にもかかわらず、スピルバーグはそのあたりを読み違えている。

    前回、「ジュマンジ3」を罵倒したが、〈リアルへの回帰〉という問題系においては、「レディプレイヤー1」よりはるかに面白い解答を提出しているといえる。その点では「ジュマンジ3」を評価できる。だからといって、駄作には変わりない。

    しかし、「レディプレイヤー1」はそれを越える駄作なので、「ジュマンジ3」がましに見えたことによって、見るべきところが見つかるという逆説的なことがおきた。そのような「誤配」が起きたことに関しては喜ばしく思っている。

ではでは。

リモート飲み会の憂鬱

久しぶりに高校時代の友人と話をした。勿論、コロナ下なので、最近流行りのリモート飲み会とやらに参加した。

結論から言えば、こんな飲み会に参加するべきではなかった。僕は嘘をついた。他の三人が正社員である手前、パートであることを言い出せなかったのだ。そして、正社員で月給が二十万円もあると嘘をついてしまった。

この嘘に対する嫌悪感から通信状態が悪くなったとこれまた嘘をついて、リモート飲み会から離脱した。

正直いってもう三人とは会いたくない。自分の惨めさを思い知らされるだけで、憂鬱な気分にしかならない。勿論、それは、自分自身就職活動をせずにいたからなのだが、それにしても自分が周回遅れになっている事実を改めて突きつけられるのは辛い。

どうして断らなかったのだろう。何か起こるかと期待してしまったのだろうか。そんな自分にも嫌気がさす。

もう明日のことだけを考えよう。明日教える生徒のことだけを。

ジュマンジ3の駄作ぶりはどうしたものか

子どもの頃に「ジュマンジ」を見たとき、こんな面白い映画があるのだと思うぐらい楽しんだ。勿論、一番好きな映画は「バック・トゥー・ザ・フューチャー」でそれに続いて「スターウォーズ」とくるので、その次ぐらいの位置付けではあるけれど、好きな映画のひとつだ。

しかし、この傑作を2、3で滅茶苦茶にしてくれたことに相当怒りがある。まだ、2は百歩譲って許せるが、3の駄作ぶりには目を覆うばかりだ。というのも、2では1の内容を踏襲して、恋愛要素と過去と未来の交錯があり、物語にある程度の厚みがあった。勿論、キャラクターを選んでゲームの世界で戦うという設定にはヘドが出たがそれは甘受しよう。

このたいして評価できない2と比較しても、3の全てを吹き飛ばすほどの駄作ぶりには逆立ちしてもかなわない。3では主人公の祖父とその元同僚が出てくる。主として、物語はこの二人の和解と主人公の現実世界への回帰を軸に展開される。そこに前回と同じくゲームの世界へ入っていくという要素を足してまとめたのが3だ。

まず、老人同士の和解などわざわざ「ジュマンジ」でやる必要があるとは思えない。後者の主人公の現実世界への回帰もわざわざ「ジュマンジ」である必要性が乏しい。2において、主人公はゲーム内でマッチョな男になり、その自分に酔っており、3において冷えきっていた彼女との関係を再びマッチョになることで、改善できると思い込む相当痛い男なのだ。

乏しい言ったのはゲームに戻る必然性が単に女のためであり、それ以上でもそれ以下でもないためである。そもそも、1や2においては、プレイヤーは「ジュマンジ」をやらざるを得えない状況下に置かれており、彼らに選択権はなかった。これは、つまり、「運命」の問題だった。それが3では「自由意思」の問題になっており、老人同士の和解やマッチョになって女の気を引くというアホアホな話のために「ジュマンジ」というゲームが利用されている。これに我慢ならなかった。

はっきり言って、僕は「ジュマンジ2」と「ジュマンジ3」は「ジュマンジ1」の続篇とは見ていない。

むしろ、僕の分類では「ジュマンジ1」の正統な系譜は「ザ・スーラ」であり、「ジュマンジ2」や「ジュマンジ3」ではない。「ザ・スーラ」と「ジュマンジ1」の比較はやりたいと思っているが、それはまたいずれやる。

ジュマンジ」の面白さは奇妙なボードゲームをこの現実世界の中でプレーすることにある。つまり、「リアル」と「フィクション」の境界を曖昧にすることで、生まれる面白さが「ジュマンジ」の醍醐味といえるのだ。

繰り返すが、2、3がなぜ駄作かといえば、この「リアル」と「フィクション」という境界をきっちり峻別し、はいはいこっちは「フィクション」でこっちは「リアル」ですっていう構造を分かりやすくしすぎている。すぱっと二分法で割りきっている辺りにどうしてもバカっぽさを感じざるをえない。

僕はバカっぽいのに実は賢く作られている映画が好きなのだが、2、3はバカっぽくて本当にバカな映画なので全く評価できない。