1話目 「道徳の系譜」ニーチェ

   

   1話目といっても、何を書くか迷っていたのですが、最近手に取ったニーチェの「道徳の系譜」の感想でも書いてみようかなと思います。 一読すれば分かりますが、ニーチェっていう人は、非常にサービス精神旺盛な文章を書くんですね。例えば、「本書(道徳の系譜)は善悪の彼岸を補説し解説するために書いた」と明かしたり、「この人をみよ」においては「善悪の彼岸道徳の系譜は入門書の位置付けにあるのでここから入ると良い」と言ったり、読者に自分の思想を理解してもらいたい気持ちが人一倍強いと言えますね。

    それでは内容の方に入っていきましょうかね。ここからは少々文章が硬くなるでしょうが、ご勘弁を。

道徳の系譜」(岩波文庫)は、三つの論文から成り立っている。まず、第一論文として「善と悪」・「よいとわるい」、第二論文として「負い目」・「良心の疚しさ」・その他、そして、第三論文が禁欲主義的理想は何を意味するか、といった構成である。これらの論文は、それぞれ独立したものと読むこともできるし、繋がりの中で読むこともできる。そういう意味では、多様な読みが可能なテクストだと言えよう。

   それでは第一論文にどういったことが書かれているか見ていきましょうか。この論文の要旨は、善(グート)と悪(シュレヒト)、よい(グート)とわるい(ベーゼ)という概念が歴史的にどのように形成されてきたかを詳細に渡って論述している。例えば、今日といっても19世紀の話ではあるが、「よい」という概念は、よい行為を受けた側からの賞賛によって生じるものだとされているが、それは大きな間違いだとニーチェは指摘する。そもそも、「よい」という概念は、「よい人間自身」であった。つまり、その「よい人間」が行為するとき、それは「よい」ことだと見なされたのであって、「よい」行為そのものが先にあったわけではない。

    では、「よい人間」だと見なされた人びとは、どのような階級に属していたのか。端的に言えば、貴族と戦士である。貴族という言葉は、古代ギリシャにおいて、「よい」という言葉とほとんど等価で用いられていた。一方の戦士という言葉も古代ローマにおいて、「よい」という言葉とかなり近い意味で用いられてきた。つまり、「よい」という言葉は、貴族や戦士といった階級と結びついていたということである。

     他方、「わるい」という概念はどこから生まれたのだろうか。語源的に言えば、「わるい」という言葉は、「率直に」や「素朴な」とほとんど同語として使われていたようである。そして、これらの言葉は平民と結んでよい言葉として使用されていた。

これまでのことをまとめて言えば、「よい」という概念も、「わるい」という概念も、貴族・戦士vs平民という階級上の対立から生じて、価値判断の言葉に転じていったというのが大元にあるようだ。

    古代から中世へと時代が下るにつれて、キリスト教がヨーロッパを覆い始める。そうして、かつての階級的意味から少しずつずれていく。そこに現れたのが僧職者逹(聖職者)である。彼らは、戦士的或いは貴族的な価値観を根本的に転倒させる。

例えば、こんな風に、

「惨めなる者は善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、彼らのためにのみ至福はある。」(P41. L1ーL4 )

つまり、僧職的価値においては最無力者こそが「善き者」であって、力や権力のある者は、「悪しき者」なのだ。この転倒した価値に依拠することが「畜群」への道を切り拓くことになるのである。