天気の子 感想続き

   また、「天気の子」を貶そうと駄文を連ねているのかと批判されそうですが、書くしかないのです。

    僕がこの映画を好きになれない点は以下の二つです。一つは、田舎の青年というものは都会に憧れるものだという幻想。もうひとつは、世界を救いたい子どもたちvsそれを阻止する大人たちというヘドが出る図式です。

   前者から言えば、現代の田舎に生きる青年はさほど「都会への憧れ」を持っていないということです。そもそも「都会への憧れ」って何処から生じるものなのでしょうか。それは、田舎にはないお洒落な店に立ち寄ったり、最新の製品をいち早く手に入れたりできるからでしょうか。しかし、この図式はネット通販の発達やチェーン店の増加を背景にして、今日では成り立たなくなっている。例えば、スマホタブレットでアマゾンのアプリをタップして、商品購入ボタンを押せば、数日後には目当ての物が配達されるし、最寄りのスターバックスに入れば、美味しいコーヒーやケーキと共にそれなりにオシャレな空間を楽しむことができる。もう都会は憧れの対象ではなく、日帰りで東京ディズニーランドUSJに行って、体験を消費する空間としての役割しか持っていないのだ。

    にもかかわらず、作中には都会に憧れる青年像を提示し、お前たちはこうだろうと言ってしまうのはあまりにも前時代的すぎる。 それを考えたとき、「おもひでぽろぽろ」という作品は20年以上も前のアニメ映画ではあるが、田舎に生きる青年像を的確に掴んでいたといえる。作中に生きる青年は穂高のように都会に憧れたり、変な屈折もなく、のびのびとしている。非常に自然な姿が提示されているのです。田舎の青年は「自分探し」と「都会への憧れ」を胸にフェリーのタラップを降りたり、電車のホームに立つわけではない。家の前にある田畑を耕し、汗水垂らして日々を生きる田舎の青年だって数多くいるのです。高畑に見えて、新海に見えないのはまさにこの部分だといえる。新海は前時代的な青年像に幻想を抱いていて、自分のリアリティーと世間のリアリティーとのズレが全く分からなくなっているのではないのか。現代を舞台にしている以上、このズレは映画監督としてあり得ないレベルの低さだと言わざるを得ない。

    後者はまた日を改めて書こうと思います。

天気の子 感想

   今日、深海監督最新作「天気の子」を見に行きました。結論からいうと、ああーまたかという感じですね。「君の名は。」もそうだけど、いわゆる「愛」のパワーで解決みたいな話はやめてもらいたいなと思いました。何らの必然性もなく、すべてがご都合主義なんですよね。

   ただし、一つだけ注目できる点がある。それは「東京」という街はいかなる意味をもつのかということです。明治維新以降、東京大学の設立と共に、学問の門を叩く学生たちが「東京」に集まってきた。そして、京都に留まっていた天皇も「東京」へと移住し、文字どおり「東(ひがし)」の「京(みやこ)」となった。それから、もう150年が過ぎた。

   「東京」は首都であり、田舎の若者にとって憧れの対象であり、乱築されたコンクリートの街でもある。「天気の子」ではしなくも明らかにされたのは、ネオンが輝くきらびやかな「東京」の街は実は虚飾であって、地盤が緩く、自然災害に弱い脆弱な都市であるということだ。その弱さが水没する「東京」という都市の意味だと思った。やはり、首都機能は分散し、公共事業を行って、国土強靭化を進める必要があるなと思いました。

「道徳の系譜」続き

 

   僧職者的価値観に依拠した「畜群」達は道徳上において奴隷一揆を始める。彼らは自らの敵を自力で復讐できずに「反感」(ルサンチマン)を募らせ、自分以外のものをあたまから否定する。まず「悪い敵」を見つけて、その対照である自分=「よい人間」を見いだすのだ。これこそが道徳上における奴隷一揆であり、貴族・戦士的価値観の転倒なのである。

    しかし、ここにおいて問われなければならないことは、貴族・戦士的価値観における「よい」(グート)と「わるい」(シュレヒト)と僧職者=畜群的価値観における「よい」と「わるい」は単なる概念の転倒ではなく、全く異なるという点である。前者が「よい」という根本概念を予め自発的に設定し、「わるい」という概念を創り出すのに対して、後者は「悪い」(ベーゼ)というレッテル貼りから始めて「よい」という概念を創り出すのだ。したがって、両者は概念の生成において全く異なる手続きを踏んでいるのである。

    さらに重要なことは、奴隷道徳における「悪い」(ベーゼ)とは畜群の色眼鏡によって見られた「よい人間」=貴族であり戦士なのだ。つまり、「悪い」(ベーゼ)とは畜群の「反感」(ルサンチマン)によって生まれた産物なのである。その意味で、貴族・戦士における「わるい」(シュレヒト)とは大きく異なるのである。

1話目 「道徳の系譜」ニーチェ

   

   1話目といっても、何を書くか迷っていたのですが、最近手に取ったニーチェの「道徳の系譜」の感想でも書いてみようかなと思います。 一読すれば分かりますが、ニーチェっていう人は、非常にサービス精神旺盛な文章を書くんですね。例えば、「本書(道徳の系譜)は善悪の彼岸を補説し解説するために書いた」と明かしたり、「この人をみよ」においては「善悪の彼岸道徳の系譜は入門書の位置付けにあるのでここから入ると良い」と言ったり、読者に自分の思想を理解してもらいたい気持ちが人一倍強いと言えますね。

    それでは内容の方に入っていきましょうかね。ここからは少々文章が硬くなるでしょうが、ご勘弁を。

道徳の系譜」(岩波文庫)は、三つの論文から成り立っている。まず、第一論文として「善と悪」・「よいとわるい」、第二論文として「負い目」・「良心の疚しさ」・その他、そして、第三論文が禁欲主義的理想は何を意味するか、といった構成である。これらの論文は、それぞれ独立したものと読むこともできるし、繋がりの中で読むこともできる。そういう意味では、多様な読みが可能なテクストだと言えよう。

   それでは第一論文にどういったことが書かれているか見ていきましょうか。この論文の要旨は、善(グート)と悪(シュレヒト)、よい(グート)とわるい(ベーゼ)という概念が歴史的にどのように形成されてきたかを詳細に渡って論述している。例えば、今日といっても19世紀の話ではあるが、「よい」という概念は、よい行為を受けた側からの賞賛によって生じるものだとされているが、それは大きな間違いだとニーチェは指摘する。そもそも、「よい」という概念は、「よい人間自身」であった。つまり、その「よい人間」が行為するとき、それは「よい」ことだと見なされたのであって、「よい」行為そのものが先にあったわけではない。

    では、「よい人間」だと見なされた人びとは、どのような階級に属していたのか。端的に言えば、貴族と戦士である。貴族という言葉は、古代ギリシャにおいて、「よい」という言葉とほとんど等価で用いられていた。一方の戦士という言葉も古代ローマにおいて、「よい」という言葉とかなり近い意味で用いられてきた。つまり、「よい」という言葉は、貴族や戦士といった階級と結びついていたということである。

     他方、「わるい」という概念はどこから生まれたのだろうか。語源的に言えば、「わるい」という言葉は、「率直に」や「素朴な」とほとんど同語として使われていたようである。そして、これらの言葉は平民と結んでよい言葉として使用されていた。

これまでのことをまとめて言えば、「よい」という概念も、「わるい」という概念も、貴族・戦士vs平民という階級上の対立から生じて、価値判断の言葉に転じていったというのが大元にあるようだ。

    古代から中世へと時代が下るにつれて、キリスト教がヨーロッパを覆い始める。そうして、かつての階級的意味から少しずつずれていく。そこに現れたのが僧職者逹(聖職者)である。彼らは、戦士的或いは貴族的な価値観を根本的に転倒させる。

例えば、こんな風に、

「惨めなる者は善き者である。貧しき者、力なき者、卑しき者のみが善き者である。悩める者、乏しき者、病める者、醜き者こそ唯一の敬虔なる者であり、唯一の神に幸いなる者であって、彼らのためにのみ至福はある。」(P41. L1ーL4 )

つまり、僧職的価値においては最無力者こそが「善き者」であって、力や権力のある者は、「悪しき者」なのだ。この転倒した価値に依拠することが「畜群」への道を切り拓くことになるのである。

このblogについて

基本的に読書日記というかたちで書いていこうと思っています。もちろん、僕の興味を持っていることや生活面も書くこともあるかもしれません。あまり肩肘張らずに自由に書いていきます。

ではでは。