小津安二郎 『東京物語』

   見よう見ようと思って見ていなかった小津安二郎監督作品『東京物語』をやっと見ました。小津映画はこれが二本目で少し前に『東京暮色』を見て、ああ良いなあと思って、ちょっと敷居が高いと思っていた『東京物語』もこれで見られるのではないかと確信し、TSUTAYAで早速借りてきました。

  結論から先に言えば、すばらしいの一言ですね。戦後の家族のあり方を予言したかのような作品だと思いました。娘も息子もどんどん都会に出ていって、かつてのような親兄弟が互いに助け合う姿は微塵もなく、それぞれが日々の生活に追われている。

   そんな兄妹は満足に両親をもてなすこともできない。彼らは常にせかせかしている。それは都市生活のせいなのか。勿論、そういう面もあるだろう。しかし、彼らの職業にスポットライトを当てると、せかせかしているのは自営業だからとも言える。つまり、彼らはサラリーマンのように会社にもたれ掛かるのではなく、自らの足で立ち、自らの責任で稼いでいく必要があるのだ。そのため、余裕が見えず焦りが前面に出て、尾道からやって来た両親を邪魔者としかみなせない。それでも、両親は文句のひとつも言わない。そんな境遇にある両親を東京見物に連れていき、丁重にもてなしたのは戦死した息子の嫁である紀子だった。

   近代化して人々が仕事を求めて都市に住むようになると、共同体に支えられていた農村は崩壊し、人々は家族や隣人と切り離されてバラバラに「生活」するようになる。この「生活」は極端に言えば、自分を第一に考え、それを悪びれることもせず、淡々と銭勘定していく営みだ。非常に冷たく聞こえるかもしれないが、現代人の多くはこの「生活」を営んでいるのではないだろうか。これに関連して、印象的なシーンを紹介しておきましょう。

   母の葬儀を済ませた京子が東京へ帰る紀子に対して「お姉さんもお兄さんも勝手ね、お姉さんに至っては死んで間もないお母さんの形見をそそくさ要求してきて、あんまり酷いんじゃないの」という。それに対して、紀子が「お姉さんも悪気があるわけではないの、お姉さんにはお姉さんの生活があるのよ」と云い、さらに「みんなああなるのよ(お姉さんみたいに身勝手)、仕様がないのよ」と京子を諭して笠智衆のラストシーンに繋がる。

  紀子のいう「生活」を営んでいるのは間違いなく戦後日本人のことを指している。ただ、小津は作中でそれを批判するつもりはなく、「みんなああなるの、仕様がないのよ」と紀子に言わせて、没落し行く日本の家族に対して、不満はあるが、諦観の念を募らせるしかないと暗にいってる。まるで、慈円が『愚管抄』のなかで「貴族の世は終わり、武士の世の中になるのは悲しいことだが必然だ」と喝破したような諦念を感じる。このシーンには、いわゆる「無常観」が流れており、極めて日本的だといえると思う。しかし、そうはいっても、外国でもこの映画が高く評価されているということだから、「無常観」は万国共通なのかもしれない。いや、「無常観」そのものはキリスト教文化圏にないのかなぁ。まぁ、他の似た言葉にパラフレーズされているかもしれないけれど。いろいろ考えて書いているうちに、駄文を連ねてしまった。

ではでは。