映像作品における視聴者とキャラクターの情報量の差

   映画、ドラマ、アニメなどの映像作品における、キャラクターと視聴者の情報量の差に着目してみたい。

   おおよそ情報量の問題は次の二つに分けられる。

①特定のキャラクター+視聴者

   これはドラえもんを例にとって考えてみる。例のごとく、のび太ジャイアンにいじめられて、ドラえもんに泣きつき、秘密道具を出してもらう。この時点でのび太ドラえもん+視聴者は秘密道具について情報を共有している。一方、ジャイアンは知らない。勿論、他のキャラクターも知らない。これが①である。

 

②特定のキャラクターのみ(視聴者も他のキャラクターも知らない)。

   これはウォーキングデッドを例にとって考えてみる。S1の終盤、リック一行は研究所にたどり着き、研究者のジュンナーに出会う。リックはこのときジュンナーから自分達の脳がすでにおかされていることを知る(映像にはない)。S2になって、リックから説明があるまで他のキャラクターも視聴者も知らなかった。これが②である。

 

①は視聴者が他のキャラクターが知らない情報を特定のキャラクターと共有できるため、そのキャラクターと同じ視点で他のキャラクターを捉えることができる。アニメ監督の故高畑勲の用語で言えば、「ハラハラする」というものに近いだろう。「ハラハラする」とは視聴者がこれから何が起こるかわかっている状況でそれを知らないキャラクターに寄り添うときに抱く感情である。

 

一方、②は特定のキャラクターしかある情報を知らないため、他のキャラクターと視聴者がそのことを知ったときの驚きは大変なものになる。ここでは他のキャラクターと視聴者が同じ視点を共有している。これを高畑監督の用語で言えば、「ドキドキする」というものに近いだろう。「ドキドキする」とは、視聴者がこれから起こることを知らずにいきなり何かが起こり、その当事者であるキャラクターと同じ感情を共有することである。

 

①と②を比較したとき、視聴者に劇的な効果をもたらす手法は明らかに②である。そのため、ミステリーやホラー系の作品ではこの手法が多用されている。

今日は疲れたので、また続きを書きます。

 

 

2話目 資本主義の最終段階における帝国主義 レーニン

   今回、読んでみたのはレーニンの「帝国主義論」です。正式には「資本主義の最終段階における帝国主義」という長いタイトルがついています。ただ、一般的には「帝国主義論」という短縮して呼称されているようです。

 

   ざっと要旨を述べておきますが、この本において、レーニンが執拗に批判しているのは、資本主義の発達がある段階を越えると、本来持っていた自由競争の原理が薄まっていき、カルテルやトラスト、コンツェルンといった独占体が形成され、少数の企業が市場を独占するようになっていくことです。そして、このプロセスが最終的に「帝国主義」へと収斂していくことを様々な根拠を示しながら証明していきます。

 

   この発展段階における顕著な特徴は、企業間での統合及び銀行間での統合が急速に進むことです。この二つが同時並行的に進むことが、「資本主義」から「帝国主義」へと移り変わる過渡期に顕著な現象なのです。これがもう一段階進むと、ーーーいわゆる「帝国主義」ーーーに移行すると、列強による植民地への「資本輸出」が行われるようになります。これによって、植民地は列強への従属度合いを強めていくことになります。ここでのポイントは「商品輸出」ではなく「資本輸出」だというです。単なる「商品輸出」であれば、彼らの購入する量は限られますから、たいした商売になりません。

   しかし、「資本輸出」となれば、鉄道の敷設を始めとする公共事業を展開し、その上前を跳ねるという悪どい商売ができますし、借款を供与することで、列強の商品を購入させ、植民地がさらに従属度合いを強めることに繋げることもできるのです。このようにして世界は文字通り列強によって分割されるのです。そして分割された植民地はまた他の有力者に再分割されるというかたちで決して終わることはないのです。

氷河期世代の就労支援

       氷河期世代を公務員として採用します!最近、こんなことを政府をあげて主張し始めた。この動きに全国の自治体は氷河期世代に対して数人の採用枠設け、その救済に乗り出している。しかし、その競争は凄まじく、数人の採用枠に対して何百人も応募者が殺到し、倍率は600倍を超えている自治体もある。

 

       私は基本的にこの流れに賛成である。しかし、あまりにも対策が遅れすぎた。それにどれだけの人が、どのような人が採用されるのか、その基準は判然としない。はっきり言って大きな疑問符がつく。本当にこの対策で氷河期世代は救われるのだろうか。一部報道では民間でも採用枠を用意するという話があるが、基本的には公務員に限定されている。

 

   このような制限を取り除くためにも、政府が補助金をつけるかたちで、民間企業に対し、ロスジェネを正社員として採用するよう促す必要がある。そうでなければ、公務員試験を受け続け、叶わぬ望みに賭け続け、最終的に生活保護に駆け込むことになるか、はたまた犯罪に手を染めたり、絶望のあまり自殺してしまう人が急増するだろう。 このような未来にしないためにも、彼らを救済するのは、日本国の責務である。このことは強調しすぎてもしすぎることはない。

 

   現在、コロナウイルスが世界中で蔓延しており、今年の就活生は就活戦線において、窮地に追い込まれている。この状況が長引けば、第二のロスジェネを生み出しかねない危機的事態にある。今回だけは政府に大規模な財政出動をしてもらいたい。そうすれば、救われる人がどれほどいることか。しかし、財務省の緊縮イデオロギーに毒されている政府には届かない声なのだろう。それでも、叫ばずにはいられない。なぜって、日本の未来は私たち一人一人に責任があるのだから。

 

天気の子 感想の続き2

   世界を救いたい子どもたちvsそれを阻止する大人たちという図式に対しての批判をしておくことを忘れておりました。

   穂高たちは、最終的に警察の制止を振り切り、陽菜を救いだすことに成功し、見事に大団円をむかえます。しかし、これが原因で東京の大部分は水に沈んでしまいます。この事態に対して、穂高には何の葛藤もなく、雨の降る坂道で空に向かって祈る陽菜との再会を果たし、物語は幕を閉じてしまうのです。このあまりの「ノーテンキ」さには、さすがに呆れてしまった。

 しかし、ある意味この「ノーテンキ」さが3.11以降の我々だとも言えなくもない。あれだけ地震津波原子力事故による被害を被ったが数年もたてば、被災地を除いてどこ吹く風といった調子だ。勿論、日本国中、悲嘆にくれる必要もないのだが、何かこの「忘れっぽさ」が気になってしかたがない。結局のところ、あの程度の地震ではびくともしないと日本人の間で共通の了解ができたにすぎず、日本社会に大きな変化をもたらしたわけではなかった。

   にもかかわらず、3.11以後はとかくにつけて、日本は変わるとインテリを中心にして、騒ぎ立てていた。そんな彼らも今は静かになっている。いったいあの大騒ぎは何だったのだろう。

 

   私自身は当時、中学生のガキにすぎず、東日本が大変になっていることは理解していたが、四国に住む私にとっては何か遠い異国の出来事のように受け取っていた。それは私に限らず、西日本に住む人々は概ねそんな風だったような気がする。

   勿論、被災地へ救援物資を送るために学校で飲み物を集め、それに協力した覚えはあるが、何かユニセフへ寄付したようなあまり実感を伴わない空虚なものだった。テレビを通して流れてくる津波の映像も余計に物理的距離を感じさせるものでしかなく、誤解を恐れずに言ってしまえば、「フィクション」の世界のようにしか感じられなかった。「お前はそれでも日本人か!」旧日本軍の如きお叱りの声がどこからか聞こえてきそうだが、私にとって、3.11は空虚な「フィクション」だった。

犯罪者を欲する人々

   最近、犯罪者の報道が盛り上がっている。特にネットのコメント欄では日夜、犯罪者に対して、罵詈雑言が浴びせられており、いわゆるネットの「おもちゃ」として消費されているようだ。このような風潮に対して、少し冷や水を浴びせかけておきたい。

   そもそも、犯罪者は犯罪を犯している者であるからして、無条件に叩くことのできる存在として認知されているようだ。これがまず間違いなのだが、「善良」な一般市民にとって、これほどストレスの捌け口になる存在もいない。彼らを叩くことはとてつもなく快感だ。なぜなら、自分が善の側にいて、相手は絶対的な悪の側にいるのだから。本当はその区別など実に曖昧なものだが、あまりにも分かりやすい悪はそういう区別を絶対的なものにする。そして、誰にでも多少ある「内面の悪魔」を隠蔽してしまう。自分が犯罪者になる可能性など万が一にも考えないのだ。この思考停止状態は新聞やテレビなどのマスメディアをはじめとして、個人のSNSや5ch、ネットニュースのコメント欄まで全て共通している。

   僕はこの現象を恐るべき事態だと考えている。特に個人で情報を発信できる世の中になったことで、「匿名性」の「暴力」は凄まじい力を発揮し、社会の隅々まで浸透しつつある。中でも犯罪報道はこの「暴力」に火をつけ瞬く間に犯罪者をまるこげにしてしまう。この情念のマグマが支配的になる世の中で、いかに冷静さを保ち批判的視座を見失わないか。それだけが僕たちにとって重要なことだ。そして、犯罪者を欲する人々の目の前に彼ら自身を映す鏡を提示すること。そこで「はっ!」とするような「気づき」を与えられるか。これこそが世の中を「批評する者」にとって重要なことだと考える。そういう意味で、昨今揶揄されがちな「評論家」ではなく、「気づき」を与える「批評家」でありたいと思っている。

小津安二郎 「東京暮色」

東京物語」の感想と時系列が前後しますが、「東京暮色」の感想を遅ればせながら、書いてみます。

  「東京暮色」は有馬稲子の美貌と薄幸の運命が見事にマッチした名作だと思います。ただ、世間ではあまり評判が芳しくなく、有馬さんの演技力に難癖をつける人もいるみたいです。たしかに、有馬さんの演技はお世辞にも上手いとは言えず、脇役の上手さに支えられている印象です。特に母親役である山田五十鈴が娘役の原節子を列車で待つ姿は圧巻の演技力です。僕はこのシーンがとても好きで、特に演出効果として明治大学の校歌がホームに響き渡っているのですが、これが本当にすばらしい。通常、校歌はエールを送るはずのものですが、ここでは異様に悲しく聞こえるのです。というより、むしろ悲しみを増大させるような効果を意図している。まさに小津監督の演出力がきらりと光っているシーンだといえるでしょう。

   もう一人の脇役として、父親役の笠智衆がいるのですが、これがまた良い。彼は銀行に勤めているのですが、そろっとぬけだしてパチンコに興じているシーンがあります。彼は妻に逃げられ、仕事にあまり身が入らず、娘たちは結婚生活や恋愛に失敗し、暗く沈んでいます。この空虚さからパチンコに興じる姿は哀愁が漂い、人生の難しさをひしひしと感じる。今、笠智衆のような父親役をこなせる役者は日本にいません。もっと言えば、こんな独特な演技をする人は、後にも先にも現れないでしょう。

   現在の役者は動的に迫力をもった演技をする人が割合多いですが、笠智衆のような静かな迫力をもつ役者はあまりいません。もちろん、小林薫なんかは笠智衆の域に達しているような気もしますが、悲しさや哀愁がまだまだ足りない。

   やはり、こういう役者の欠如が今の日本映画を駄目にしているのだろうとよく思います。大衆は派手なひとばかり求めるが、映画においては人生と同じように脇役の介入が欠かせない。どうも今の日本社会はいろんなレベルで脇役が軽視されているように感じる。まぁ、嫌な世の中ですが明日も頑張って生きてみましょうか。こんな世の中だからこそ空元気でもださなきゃ、やってられませんからね。

ではでは。

小津安二郎 『東京物語』

   見よう見ようと思って見ていなかった小津安二郎監督作品『東京物語』をやっと見ました。小津映画はこれが二本目で少し前に『東京暮色』を見て、ああ良いなあと思って、ちょっと敷居が高いと思っていた『東京物語』もこれで見られるのではないかと確信し、TSUTAYAで早速借りてきました。

  結論から先に言えば、すばらしいの一言ですね。戦後の家族のあり方を予言したかのような作品だと思いました。娘も息子もどんどん都会に出ていって、かつてのような親兄弟が互いに助け合う姿は微塵もなく、それぞれが日々の生活に追われている。

   そんな兄妹は満足に両親をもてなすこともできない。彼らは常にせかせかしている。それは都市生活のせいなのか。勿論、そういう面もあるだろう。しかし、彼らの職業にスポットライトを当てると、せかせかしているのは自営業だからとも言える。つまり、彼らはサラリーマンのように会社にもたれ掛かるのではなく、自らの足で立ち、自らの責任で稼いでいく必要があるのだ。そのため、余裕が見えず焦りが前面に出て、尾道からやって来た両親を邪魔者としかみなせない。それでも、両親は文句のひとつも言わない。そんな境遇にある両親を東京見物に連れていき、丁重にもてなしたのは戦死した息子の嫁である紀子だった。

   近代化して人々が仕事を求めて都市に住むようになると、共同体に支えられていた農村は崩壊し、人々は家族や隣人と切り離されてバラバラに「生活」するようになる。この「生活」は極端に言えば、自分を第一に考え、それを悪びれることもせず、淡々と銭勘定していく営みだ。非常に冷たく聞こえるかもしれないが、現代人の多くはこの「生活」を営んでいるのではないだろうか。これに関連して、印象的なシーンを紹介しておきましょう。

   母の葬儀を済ませた京子が東京へ帰る紀子に対して「お姉さんもお兄さんも勝手ね、お姉さんに至っては死んで間もないお母さんの形見をそそくさ要求してきて、あんまり酷いんじゃないの」という。それに対して、紀子が「お姉さんも悪気があるわけではないの、お姉さんにはお姉さんの生活があるのよ」と云い、さらに「みんなああなるのよ(お姉さんみたいに身勝手)、仕様がないのよ」と京子を諭して笠智衆のラストシーンに繋がる。

  紀子のいう「生活」を営んでいるのは間違いなく戦後日本人のことを指している。ただ、小津は作中でそれを批判するつもりはなく、「みんなああなるの、仕様がないのよ」と紀子に言わせて、没落し行く日本の家族に対して、不満はあるが、諦観の念を募らせるしかないと暗にいってる。まるで、慈円が『愚管抄』のなかで「貴族の世は終わり、武士の世の中になるのは悲しいことだが必然だ」と喝破したような諦念を感じる。このシーンには、いわゆる「無常観」が流れており、極めて日本的だといえると思う。しかし、そうはいっても、外国でもこの映画が高く評価されているということだから、「無常観」は万国共通なのかもしれない。いや、「無常観」そのものはキリスト教文化圏にないのかなぁ。まぁ、他の似た言葉にパラフレーズされているかもしれないけれど。いろいろ考えて書いているうちに、駄文を連ねてしまった。

ではでは。